140年の社歴
日永うちわ作りを起源に、現在へ受け継がれる技術と情熱。
江戸~
明治
日永うちわ作りの先駆者としての絵・文字の技術を起源に…
創業者 山口 寅吉
江戸時代から伊勢参りの土産物の一つとして、東海道の「日永宿」で栄えた日永うちわ。日永宿では約300年前からこの地の名物として土産物屋の店先に並んでいたと言われています。日永うちわは、女竹(丸い竹)を使い、扇ぐ風が柔らかくなびくという優雅さがあり、風流を好む江戸人たちにも人気のある工芸品だったようです。
現在の日永工場のあるこの地は、明治の頃まで東海道沿いに土産物屋が軒を並べ、周辺には広大な田園に彩られた美しい風景が広がっていました。
うちわの生産業者だった山口堂は、1877年(明治10年)山口寅吉によって、うちわ作りで培った美しい絵や文字を駆使する技術をより広げるべく、木版印刷「山口堂」を創業しました。
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1877年(明治10年)
創業者 山口 寅吉 木版印刷 山口堂開業
明治〜大正〜
昭和初期
蘭字と多色刷りで物産品の輸出に貢献した創業期
この時代は明治維新を経て、日本の産業改革の幕開けともいえる時代でした。
1894年(明治27年)伊勢鉄道開通により「早くて大量に」人や物を運べる時代を迎えました。大量輸送とともに日ごとに盛んになる物品交流の流れ。この時代の足音の変化を敏感に捉えた山口寅吉は、うちわで蓄積した多色刷りの技術を生かして、物産品である伊勢茶や、生糸、蝋燭、綿製品のラベル作りに着手、うちわ屋から印刷業へ本格的に進出していきます。(この時、輸出用の製品で製品名を英語で表記した茶ラベル「蘭字」は世界に向けて動き始めた日本の産業動向を伝える資料として貴重な物となっています。)
蘭字 ラベル(うちわ)
蘭字見本帳
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1928年(昭和3年)
合資会社山口堂印刷所に社名変更 代表取締役 山口 小三郎就任
昭和初期〜
昭和中期
高級石版印刷の導入と清酒・薬のパッケージ製作への幕開け
社員から大将と呼ばれ信頼されている2代目の小三郎は、他の印刷会社が、書籍や文字物など単色印刷物に取組む中、当時は大変高価な「石版印刷」を導入。この地方としては最新設備を持つ印刷専門会社としました。背景として日本は好景気の波に乗り、四日市は綿紡績などの繊維工業、製油、陶磁器工業などが栄え、商いの町から工業の町へ発展していました。貿易に頼る時代から国産品の生産普及の時代へと変化していったのです。
印刷会社として清酒のラベル、薬などのパッケージにも取り込み、当時から5~6色の多色刷りで独自性を発揮できるように変化、発展させたのもこの頃からです。
石版印刷導入後は仕上りの良さが評判となり、お客様紹介、口コミで取引は伊勢市など市外まで、和菓子包装紙や土産ラベルなどの受注へと広げました。
その後も石版オフセット印刷や打抜き加工、金付け加工など薬品ケースや日本酒変形ラベル向けのパッケージ専門設備も導入、同業他社に少ない印刷加工技術を取り入れて技術向上を図ります。その後、親しい得意先が経営する書籍専門の四日市印刷㈱を引き受け、社長は山口小三郎が就任、新社名は四日市印刷工業㈱となり現在の原形が出来上がりました
旧本社工業前での集合写真(現:日永工場)
大将の愛称で
親しまれた
2代目 山口 小三郎
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1944年(昭和19年)
山口堂印刷所と四日市印刷が合併
四日市印刷工業㈱設立 代表取締役 山口 小三郎就任
昭和中期〜
平成 変革期
オフセット印刷の導入とパッケージへの販路拡大
3代目
山口 進 代表取締役
「人」と「和」を重んじる人物である3代目山口進は会社に縁のある方を社員旅行や宴席に招待するなど、会社関係者、社員ともに多方面での交流を広げ、取引先を増やしていきます。また慕う知人やお客様から顧客紹介を受け、東海地区を中心に新規顧客を少しづつ開拓、県外への販路拡大に成功しました。昭和38年、長年続いた生産拠点である日永の町から現在の本社である本郷町に本社工場の移転を完遂、その後はデザイン企画部の設置、県内初の大型オフセット印刷(現在の主流印刷技術)を導入など、年々増加する印刷需要に対応するオフセット印刷への設備移行を続けながら現在の生産環境の基礎を築きあげました。その後、グラビア印刷会社を共同設立したこともあり、多岐にわたる生産技術を習得、当時は特殊であったパッケージの案件を手掛ける事となります。「紙にこだわらない製品を提供する」いわゆるワンストップサービス機能はこの当時から構築され、増えはじめました。
見学会が行われた石版オフセットの風景
社員旅行
大型オフセット印刷風景
本社工場を日永から本郷町に移転
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1957年(昭和32年)
代表取締役社長に山口進就任 -
1963年(昭和38年)
本社工場を日永から現在の本郷町に移転 -
1978年(昭和53年)
本社工場に原紙倉庫を新設
平成〜
創業200年を
目指して
革新期
パッケージ総合商社としての更なる社会貢献への覚悟
昭和後期からのバブル最盛期には、パッケージだけにとどまらず、チラシやパンフレットの販促物の売上が飛躍的に伸び、過去最高の売上記録もありました。しかし市場環境は激変して印刷物需要の低下、IT広告の影響もあり、販促物を中心に過当競争の時代に入ります。
4代目山口薫は「常にお客様に安心いただく環境」を念頭に自社規模でできる範囲から、堅実に社内環境の改革を進めていきます。まずIT化が業界に押し寄せる中、年々進化するデジタル技術を見極めて、製作・製版工程のデジタル化に着手、プリントイメージがオンラインで印刷機に反映されるカラーマネジメント化を構築しました。そして創設の原点「パッケージ」を続ける使命として、「食品包装に適した生産環境そして品質基準」を目標に日永工場そして本社工場を新設、私達はお客様からの叱咤激励や助言もいただくことで、社内環境の改善を繰り返し、年々高まる厳しい環境に向けた「社風作りと生産環境」を念頭に進化を続けています。そして長年続く関東地区での実績を生かしながら、東京事業部を開設し、さらなる販路拡大を目指しています。
本社工場外観
本社工場
エントランス
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1990年(平成 2年)
山口 薫が代表取締役に就任 -
1991年(平成 3年)
食品包装対応に向けて日永工場を3階建て工場に新築 -
1993年(平成 5年)
IT革命によるアナログからデジタル化へ設備投資を開始 -
2000年(平成12年)
事業拡大にともない、本社工場を新築 -
2001年(平成13年)
自社印刷物以外の製品を取り扱う「YPパック事業部」を設立 -
2001年(平成13年)
品質マネジメントシステム「ISO9001」を取得 -
2001年(平成13年)
日永工場を食品パッケージの加工工場として対応できるように改築 -
2002年(平成14年)
CTPを導入することによって、プリプレス(印刷前工程)のフルデジタル化 -
2003年(平成15年)
受発注管理基幹システムを導入、社内情報のオンライン化 -
2006年(平成18年)
カートンサンプル用プロッター機、CADソフト導入 -
2006年(平成18年)
品質重点製品にともなう検品工程を設置 -
2007年(平成19年)
京都市の shin-bi ギャラリーにて 「モダン・パッケージ・デザイン展-四日市印刷工業株式会社コレクション-」を開催 -
2007年(平成19年)
菰野町のパラミタミュージアム小ギャラリーにて 「四日市モダン再見 -懐かしくて新しい四日市の広告-」展を開催 -
2010年(平成22年)
東京事業部を開業 -
2014年(平成26年)
山口 薫が会長に就任 -
2014年(平成26年)
山口 史高が代表取締役に就任 -
2014年(平成26年)
本社工場屋上に太陽光発電システムを導入 -
2017年(平成29年)
LED-UVシステムを導入、パイルターナー(四六全)設備を導入 -
2018年(平成30年)
CTP設備を導入(更新) -
2019年(平成31年)
静岡県清水市のフェルケール博物館にて企画展示「時代を彩るグラフィックデザイン」に明治~昭和初期のラベルパッケージを出展、平版印刷のワークショップの協力 -
2020年(令和2年)
菊全薄紙紙積機パイルジョガーを導入 -
2022年(令和4年)
縦型折加工機を導入(更新) -
2022年(令和4年)
AccrioPressデジタル印刷機を導入 -
2022年(令和4年)
三重県SDGs推進パートナーに登録
信頼いただけるサービスを継続し、お客さまの喜びを共有するプロ集団になることを目指します。
食品に求められる商品価値そしてサービスも多種多様になりました。
私達はそれぞれのお客様の売上げ支援、商品の課題に真摯に向き合い、
解決する方法を探究することに時間を惜しみません。そしてお客様の笑顔を
最大の喜びとして、安心いただけるサービスや環境づくりに常に変化を続けます。この先の未来も、先達と同じように時代の変化に対応する努力を惜しまず、
信頼いただけるサービスを継続する事でお客さまの喜びを共有する
プロ集団になることを目指します。
右:4代目 山口 薫
左:代表取締役社長 山口 史高